”閑暇”の思考

評論家ではなく実践者。

私が大学での4年間の生活を終え、最初に入社した会社で出会った言葉だ。
とても腑に落ちて、その意味だけではなく、響きさえも格好いいと感じたのを今でも鮮明に覚えている。
社会に出るまさにその瞬間にこの言葉に出会えたことは幸運であり、ビジネスマンとして仕事をしていく上で、この言葉は自分にとっての”お守り”のような存在になっていた。

しかし、時に”お守り”は、”足枷”へと姿を変える。

評論家ではなく、実践者であり続ける。
そんな意識は、思考の時間を奪い、行動を続けることに重心を大きくずらす。
思考といっても、特に重心が最も遠のくのは、日々の生活や目の前の事象から自分を引き離し、自分の生を俯瞰する類の思考だ。
日々の忙しさに忙殺され、気がつけば1日が終わっていた、1週間が終わっていた、またあっという間に年の瀬を迎えた、という人も少なくないはずだ。

私もまた、そのような人間の一人だった。
ただ、昨年定職を離れ、今年は一年のうちの多くの時間をアフリカで過ごしてきたことで、この日常から離れた思考の時間、セネカの言葉を用いてみると「”閑暇”の思考」が、人の生においていかに重要であるかを、改めて痛感している。

すべての人間の中で唯一、英知(哲学)のために時間を使う人だけが閑暇の人であり、(真に)生きている人なのである。

セネカ. 生の短さについて 他二篇 (岩波文庫) (p.37). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

アフリカに来てからというもの、誰かに決められた就業時間が存在しないからか、自身の事業を育てきれていないためか、はたまたアフリカという地が持つ独特の時の流れゆえか、(またはその全て故か)、自分の人生において”閑暇”を非常に生み出しやすくなったと感じている。

そして、この年の瀬に改めて振り返ってみれば、そんな日々の中で「”閑暇”の思考」を積み重ねられたことが、非常に幸運だったと感じる。
閑暇が生まれれば、読書をして思考の畑を耕したり、一人で深い思考の世界に潜ったり、または誰かと対話をして思考を深めたりして過ごしてきた。
これら時間はどれも何気なく過ごしてきた時間ばかりだが、どの時間も自分の生を形作っていく上で非常に重要で、貴重な時間だった。
特に、インターン生(厳密に言えば、ボランティアできているお手伝いの学生)と1日の最後に、カンパラの夜景を眺めながら遅くまで抽象度の高い議論を繰り返した時間は、私自身にとっては一つ一つが宝石のように輝くかけがえのない時間だった。

もちろん、そこで生まれた思考の一つ一つを思い返しても、その時どんな話をしたのか一言一句まで思い出すのは不可能で、さらに言えば、おそらくなんとなくそんな話をしたな…と思い出すので精一杯だ。

ただ、意識の中にはその記憶は残っていなくても、無意識の中に、そこで得た議論のカケラが必ず残っている。

「”閑暇”の思考」の産物は常に無意識の中に宿る。
そしてそれらが、私の命を、生を紡いでいる。

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