連載#6 怠惰な忙事と林檎の木

その時間は果たして本当に必要か。

前回の連載で、セネカ『生の短さについて』(岩波文庫)という書籍を紹介した。
この書は、約2000年の時を超えてもなお色褪せず、むしろその深みからこの先数千年間も軽々と時代を超えていってしまうような名著だ。
そこで今回も、この書から得た気づきについて記したい。

セネカは、本書の中で下記のような言葉を記している。

移り気で、あてどなくさまよい、自己への不満のくすぶる浮薄さに弄ばれ、これと決まった目的もないまま、何かを追い求めて次から次へと新たな計画を立てる者も多く、また、ある者は、進むべき道を決める確かな方針ももたず、懶惰に萎え、欠伸をしているうちに運命の不意打ちを食らう。

セネカ『生の短さについて』(岩波文庫

ここで言及されているのは、たった一度きりの人生を無駄に過ごしてしまう人間の二つのパターンだ。
前者は、なんとなく自分の人生に満足感がなく、また自分が何に満足するのかもわからないまま、闇雲に計画を立てては何も得られることのないまま人生を終えてしまう者だ。

後者は、より悲惨かもしれない。
自分の進むべき道を決める方針も持たず、また更にはその意思すらもなく、浅い考えのまま(もしかすると何も考えてすらいないのかもしれないが)気づけば最期を迎える者だ。

セネカは自身の書の中で、このような人間の哀れさとで愚かさを指摘している。
ただ、これが人ごとに思えないというのも、おそらく大半の人間が感じる感情だと思う。

というのも、二つのパターンともに、私自身も陥ったことが幾度となくあり、またそのような状態から脱するのに毎度かなり苦労している。
きっとこの記事を読んでいる人の中にも、同じような経験をしている人は多いのではないかと思う。
学生時代の終盤に差し掛かり、なんとかして人並み以上の稼ぎを得ようと、特にそこに猛烈な関心があったわけでもないのにアフィリエイトや当時流行りだったYouTubeに時間を費やした。
また、それ以前の10代の頃は、自分の人生の大枠の方針すらも持たず、ただ周りの大人の意見や常識というものにながされ、受験勉強にほぼ全ての時間を費やした。

もちろん、スティーブ・ジョブズの”Connecting the Dots”という言葉を借りれば、これらの経験が今の自分に活かされていることは多分にあり、全ての経験は非常に意味があったと思う。
しかし、このような闇雲に彷徨う時間や、何も考えずにただ生物学上の意味のみにおいて生きている時間が、人生を終える最後の時まで続くというのは、やはりあまりにも哀れだ。
セネカは、このような一見忙しいようで、実は本質的ではない物事に囚われていたり、考えなしにただ周りに流されていたりするだけの本質的には虚無な事柄を、「怠惰な忙事」という言葉で表している。

では、我々はこの「怠惰な忙事」という人生の罠からは、如何様にして逃れるべきなのか。
私が今持ち合わせる中での最適解は「今日が人生最後の日だとしてもやりたいこと」に人生の時間を使うということだ。
(ここでもまたスティーブ・ジョブズの思想を拝借することになる。彼は本当に偉大な哲学者だ。)
スティーブ・ジョブズがスタンフォード大学の卒業式で行ったスピーチは、その日からまだ20年も経たないのに、既に伝説として語られている。

“If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?”
彼はそのスピーチの中で、この言葉を毎朝鏡に向かって問いかけていると語った。
つまるところ、今日が人生最後の日だとしても満足できるくらい、自分はやりたいことをやれているのか?を常に意識しているということだ。

ここに、セネカとジョブズが共に見ていた、人生の本質がある。
周りの意見や世間の流れや流行り、常識という最も非道なまやかしに左右されて、自分の意思を全くもって排除してしまった中での忙しさは、悪魔との契約を交わし命の時間を売っていることとなんら変わりはない。
一方、自らの心の中へ問いかけ、その対話の中から導き出した事柄は、自分の人生の時間の最適な投資先だ。
自分が、人生最後の日でもやりたいと感じることを続けていれば、人生は非常に豊かになる。
またもし本当に最期の時が来たとしても、きっと悔いはないはずだ。

私自身、このセネカの書を読んで以来、自分が心から取り組みたいテーマを改めて考えることがあった。
そして、すぐにその活動に身を投じることを決め、実際に活動を開始している。
まだ、自身の人生の100%をそこに投下できているわけではなく、このような有様ではセネカやジョブズにはきっと苦笑されるだろう。
ただ、この思考の転換が起きてから、一日一日に対する納得度が明らかに上がっている。
それも天変地異と言っても過言ではないほどの具合で。

人生は高い認知能力を持ってしまった人間にとっては、非常に難解な課題だ。
ただ、かつて同じように難問に向き合ってきた賢人たちの言葉は、そんな哀れな私たちに優しく手を差し伸べてくれている気がする。



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