『堕落論』欲望について
人間は、“秩序”という名の見えないフレームワークに囚われて生きている。
日々生活をしていると、時に意味のわからない慣習がある。
特に、自分が勤めている会社にある謎の慣習や文化などは、誰もが実体験として理解しやすい類だと思う。
ただし、これは“見える”フレームワークである。
一方、我々が囚われている“見えない”フレームワークは、別に存在する。
それは、誰もが当たり前だと感じており、それを守ることが人間社会においては適切であると信じて疑われていない慣習、つまるところの“秩序”だ。
ここで、坂口安吾の『堕落論』より、- 欲望について -という章から下記を引用したい。
私は昔から家庭というものに疑いをいだいていた。愛する人と家庭をつくりたいのも人の本能であるかもしれぬが、この家庭を否応なく、陰鬱に、死に至るまで守らねばならぬか、どうか。なぜ、それが美徳であるのか。勤倹の精神とか困苦耐乏の精神とか、そういう美徳と同じように、実際は美徳よりも悪徳にちかいものではないかという気が、私にはしてならなかった。
多くの人々の家庭はたのしい棲家よりも、私にはむしろ牢獄という感じがする。そしてなぜ耐乏が美徳であるかと同じように、この陰鬱な家庭についても、人々は、それが美徳であり、その陰鬱さに堪え、むしろ暗さの中に楽しみを見いだすことが人生の大事であるというふうに馴らされてきた。私はマノン・レスコオのような娼婦が好きだ。天性の娼婦が好きだ。彼女には家庭とか貞操という観念がない。それを守ることが美徳であり、それを破ることが罪悪だという観念がないのである。マノンの欲するのは豪奢な陽気な日ごと日ごとで、陰鬱な生活に堪えられないだけなのである。
彼女にとって、媚態は徳性であり、彼女の勤労ですらあった。そこから当然の所得をする。陽気な楽しい日ごと日ごとの活計のための。
ここでは、家庭を例に用いて、世の中に存在する秩序、坂口安吾の言葉を借りるのであれば“牢獄”の存在が言語化されている。
誰もがそれこそが美徳であると信じるように馴らされてきたために、その正当性を疑えなくなっている秩序。
しかし、一度退いて考え直せば、その正当性は極めて脆弱であることが、人類の本能からして明らかであるもの。
このような、いわゆる牢獄のような秩序は、社会や文明が発展すればするほど複雑化して、我々の命を捕え続けているのではないかと思う。
もちろん、坂口安吾も本書内で記しているように、家庭を持つことや、それを守り抜くことが悪いとは断じて思わない。
ただ、盲目的にこの牢獄に囚われて人生を終えるのは、非常にナンセンスではないかと思うのである。
我々の人間社会には、この牢獄が無数に溢れているわけであるからこそ、果たしてそれは自分がアダプトしたい美徳として見られる秩序であるのか、それとも悪徳で逃れるべき“牢獄”であるのかを、常に批評的に考え生きていきたい。