【寓話】熱と幻覚

ある夜のこと。深い森の奥で、宴が開かれました。 そこには、森の長老である「熊さん」を筆頭に、森での経験が長く森の事情に詳しい動物たちが8匹ほど集まりました。参加した動物の中でも少し特異だったのは、最近この森にやってきた若手である「リスさん」と私 (キツネ) だったでしょう。とはいえ、私たちは一同に集まり、皆で楽しく、どんぐり酒なんかを酌み交わしていました。

そんな宴の最中に起きた出来事が、私は忘れられず、本日は筆をとることにいたしました。その夜の出来事と、そこから私が考えたことを記録として記しておきたいと思います。


会は、長老である熊さんを中心に非常に丁寧にかつ上品に進められていました。熊さんの邸宅では、時折、様々な会合が開かれるのですが、今回はオフィシャルな会合というわけでもなかったため、普段の会合と比較しても少し砕けた雰囲気で、しかしながら上品さを欠かずに会は運ばれていたと思います。

事が起こったのは、会も終盤に差し掛かった頃だと記憶しています。皆、少しお酒も入っておりましたので、会も終盤ということでお酒も回り始めていたでしょう。話題は、「発展が遅れているこの森を発展させるには?」という少し真面目な議題に入りました。皆が思い思いの意見を口にする中で、まだこの森では若手であり、会を通して比較的静かに食事をしていたリスさんが、ふと目をキラキラさせ、少しボリュームを大きくして語り始めました。

リスさん:「私は思うんです!この森がいつまでも豊かにならないのはおかしい!多くの動物たちが『この森の動物たちは怠惰だ。』とか言いますけど、本当にそうでしょうか!? 私は結局はそうやって諦めている側の問題だと思うのです。例えば、何かを教える際も、「彼らはダメだ」と諦めている側がダメなんですよ。確かに、他の森の動物たちを教育することに比べると、この森はとても大変かもしれません。でも、諦めずに伝え続ければ、この森の動物たちとも絶対に分かり合えるはずなんです!」

先程まで静かにしていた若手のリスさんが急に大きな声で主張を始めたためか、はたまたその主張の内容ゆえか、その場は静まり返りました。

しかし、リスさんは構わず続けます。

リスさん:「そもそも、私、思うんですけど、生まれた森が違うだけで、得られる富の大きさが違うなんて間違ってる。私、他の森から来たので知ってますけど、以前の森では、同じような仕事をしてるのに、この森の何十倍、何百倍の富を得られるのが当たり前でした。これっておかしくないですか?私は、生まれた場所が違うだけでこんな不公平が生まれる、そんな世界の不条理を絶対に変えたいんです!」

読者の皆さんは、ここまでお読みになって、何を感じられますでしょうか。
「リスさんの言っていることは正しい。その通りだ。感動した。」
そう感じられる方もいるでしょう。
一方で、
「そんなことは綺麗事だ。みんなそんなことはわかっている。リスさんはまだ若くて何も知らないのだな。」
と感じる方もいらっしゃることでしょう。

その夜も、同じでした。若手であるリスさんの唐突な、そして純粋すぎる叫び。 一方で、宴に参加されていたのは、厳しい森の状況をよく知り、長年この森で過ごしてきた動物たちです。リスさんの真っ直ぐすぎる主張は、「まだ森を知らない子供の戯言」として受け止められました。

動物たち:「いやぁ、若いって元気でいいね。」

熊さん:「そうですね。ただね、リスさん。君はまだ若いからそう言えるのかもしれないね。例えば、少し歳をとると、自分の巣を持って、家族を守るようになる事が君にもあるかもしれない。そうすると、色々な現実が見えてくると思うよ。これは一例だけど、そうやって現実を知るとわかるはずさ。世界を変えるというのは、そんな簡単な事じゃないんだよ。」

熊さんの言葉に皮肉が効いていることは、その場にいる誰もが理解していたと思います。しかし流石のリスさん。勢いは止まらず食い下がり続け、その後は少しボルテージの上がった主張の応酬が続きました。

細かい内容は、割愛します。

ただ、参加者の多くは、この森での経験が長い動物たちです。この応酬の間、その場の空気は、「何も見えていない若者が、見当違いな夢を語っている」という冷めたものでした。実際、熊さんの言う通り、世界は複雑で、たった一匹の解像度の低い熱意だけでどうにかなるものではないでしょう。

一方で、私はその時、熊さんの正論よりも、リスさんの姿をなぜか「眩しい」と感じてしまったのです。眩しさの正体は、リスさんが纏っていた”熱”でした。私もリスさんほど若くはありませんから、他の動物たちと同様にリスさんの言動を少し冷めた目で見る気持ちも理解できました。ただ、そんな冷めた考え方が逆に恥ずかしくなるほどに、あの時リスさんが帯びていた”熱”に、私は魅了されたのです。

そう、この”熱”こそが、本日みなさんにお伝えしたいメインテーマです。


経験豊富な大人たちが「現実が見えていない」と嘲笑する一方で、私はリスさんのその”熱”に魅了され、同時に羨ましさを感じていました。その熱の魅力は脳裏から離れず、宴が終わって帰路についてもなお、私はあの熱の正体は何か?と考えずにはいられませんでした。そこで、友人を呼び、その熱の正体についてその熱の正体について議論してみました。以下には、私たちが至った熱の正体に対する、私たちなりの結論を記したいと思います。


結論:”熱”とは、”幻覚”を見ている者が纏っているもの。

実は、私もかつて、初めてこの森に来た頃は、リスさんと同じことを考えていました。
「私たちは生まれる森を選べない。そして生まれた森によって、そこに住む動物たちの大枠の未来は決まる。こんな不公平な現実を変えなくてはいけない。」
純粋に、心の底からそう信じていました。いや、今も信じています。ただ、当時はリスさんと同じような熱が、私にも帯びていたのですが、その熱が、なぜか今の自分にはなくなってしまったように感じます。それがきっと、あの夜、リスさんを見た際に感じた羨ましさの原因なのでしょう。

では、問題は、リスさんが帯びていて、私が失ってしまった熱とは何者なのか?ということです。これを、あの夜の出来事から、帰納法的に考えてみました。その場にいた参加者の属性を抽象化した際に見える特徴は、この森での”経験値”です。リスさんは、若手で、この森にもまだ来たばかり。一方で、他の動物たちは、この森で長く過ごしており、経験値は非常に豊富でした。

その間に生まれる差を、私たちは、”解像度”と呼ぶのだと思います。つまり、若手でこの森での経験が浅いリスさんは、森の事情に対する解像度がまだ低い。一方で、生きてきた年数も長く、森についても詳しい動物たちは、リスさんよりも解像度が圧倒的に高いのです。

故に、動物たちは、リスさんの解像度の低い主張を聞くと、
「若いな」「現実が見えていないな」
と感じるのでしょう。
それは、過去に解像度がまだ低かった自身の懐古であり、同時に世間知らずで今となっては恥ずかしい過去の自身への軽蔑なのではないでしょうか。主張をするリスさんを冷たい目線で見てしまうのも頷けます。それは閉まい込んでおきたい過去の自身の姿そのものでしょうから。

話を元に戻します。
では、私が感じた”熱”とは何でしょうか。

それは、リスさんが帯びていて、他の経験豊富な動物たちが帯びていないものです。言い換えると、解像度の低い者が帯びていて、解像度が高い者になるにつれて薄まっていくもの。

私はそれを、解像度の低い現実世界、すなわち「”幻覚”を見ている者が帯びているもの」と定義できるのではないかと思うに至りました。

つまり、結局、リスさんがあんなに熱くなれる(“熱”を纏える)のは、低い解像度で現実を捉えているが故に、そこに存在する世界の複雑さや、世界を変革するために越えるべき無数の壁などが見えておらず、安直な思考を行っているからなのだと思います。
「世界は不条理だ、だから変えるべきだ。」
至って安直です。

しかし解像度が上がれば上がるほど、つまり幻覚から覚めるほど、そこに様々な条件や制約がついてきます。
「世界は不条理だ、だから変えるべきだ。(*ただし、そのためには、これもそれも同時に考え、変えていかなければいけない。あ、それからあれも……)」
このような思考となるでしょう。熊さんの言っていた、「現実がわかってくる」とはそういうことだと思います。そうして、幻覚から覚めていくうちに、私たちは熱を失っていくのだと思います。


そう、故に、「”熱”とは、”幻覚”を見ている者が纏っているもの」なのです。


今回の件を通して、私は、「大人になる代償」について考えてみました。

宴で、大人である動物たちがリスさんをそれとなく諭す姿を見た時、私は、何か違和感を感じました。大人たちは「現実を知っている」という立場から、「現実をわかっていない」若者の「幻覚」をしばしば否定します。それは、彼らにとっては正しいことなのでしょう。しかし、正しいはずの行動を見て、なぜ違和感が生まれたのか。

それは、「幻覚」という一見否定されるべき存在が、実は価値を持っているからでしょう。何を隠しましょうか、幻覚の持つ価値とは、今回長々と考えてきたこと、つまり、その幻覚をもつ者に「”熱”を帯びさせる」ということです。熱はその人自身の原動力になるだけではなく、共感を呼び起こし、他人までも巻き込む強力な力を持っています。大人になるとは、「幻覚を見れなくなり、熱を纏えなくなるという代償」を伴うのです。故に、多くの大人が、怖いもの知らず(本当は幻覚を見て、現実を捉え損ねているだけですが)の若者を見て、時折、心震わされ、応援したくなるのはそのためでしょう。

こと私はといえば、だんだんと歳を重ね、若者という括りから抜けはじめているように自負しています。歳を重ねるごとに、ある程度大人側の論理もわかるようになりました。そして、同時に、大人になる代償も負っています。
リスさんを見て「眩しい」と感じたあの感情は、きっと、私が大人になっている証であり、また同時に、向こう知らずな若者の安直な言動に水を差す立場である”老害”となり始めたことの表れだったのでしょう。

なんとも、そんなことを深く考えさせられた、とある夜でございました。

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