「正解を求めよ。」
この言葉を、生まれてこの方何度目にしてきたことだろうか。
僕たちは、生まれてきてまもなく「教育」という非常に高尚な波に飲み込まれる。
そして、今の世界で徹底的に体系化されているこの「教育」では、あらゆるものに正解が存在し、その正解を導き出すための手法を徹底的に教え込まれる。
つまり、例として日本では、義務教育の少なくとも義務教育の9年間は、この正解を導き出す活動に徹底的に身を投じるように定められた世界に住むことになるのだ。
無論、教育を軽視しているわけでは決してない。
むしろ、幼少期から通信教材に取り組み、22歳になるまで高等教育を親から受けさせていただいた身として、教育の重要性については人一倍理解はしているつもりだ。
長らく高質な教育を受けさせていただいたおかげで、私生活のあらゆる場面で、非常に多くの恩恵を受けてきた。
しかし、社会に出ると、この徹底された高品質な教育が、むしろ強力な仇になる場合があることを、20年以上の人生を終えたその後に僕は初めて知ることになった。
「正解はない。」
これがこの世界に存在する、一つの真理だった。
社会に出るまでの20年間、先生や親、大人たちからは「正解!すごいね!」と何度も称賛される機会がある。
また逆に、誤った選択肢を選ぶと、「不正解!残念!」と誤りを修正され、ただ一つの正解に辿り着けるよう、徹底的に矯正をされる。
では、僕はここで問いたい。
人生の歩み方について、幸せの獲得の仕方について、自分に最も適したキャリアの選択の仕方について、最善の人生の伴侶の選択の方法について…
正解を教えてください。
おそらく、ほとんどの人が、いや須く全員が、この問いに明確に答えることはできないだろう。
できなくて当然だ。
この問いには、正解は存在しない。
ありもしない正解を教えろと問われているのだから、答えられる人がいなくて当然だ。
(むしろ、答えられる者がいるのであれば、その方は古代ギリシャやローマを生きた知の巨人たちに匹敵する哲人だろう。)
そう、この世界には正解は存在しないことが多々あるのだ。
僕が、そして君たちの多くが約20年にわたって生きてきた世界は、本当の世界のたった一部でしかない。
それは、正解が存在するという極めて小さな世界だ。
しかし、20年の教育を受けた末に放たれる世界には、正解が存在しないことが多々ある。
この事実に直面した時、多くの人間は、そのギャップに驚きそして混乱して、生きる術を見失ってしまう。
時には、自分自身を見失い、その病にその後の何十年も侵されながら、人生の最後を迎えることになる。
極めて残酷だ。
ここで僕が伝えたいことは大きく2つ。
一つ目であり、そして短期的な即効性の高いことが、「正解のない世界を受け止め、自分なりの正解を作る主体的な生き方をするべきだ」ということだ。
正解のない世界は全て不幸であることも、全てが不正解であることもない。
正解のない世界には、人の数だけ、正解がある。
これが真理だ。
誰か決められた正解をなぞるような受動的な生き方をしていてならない。
たくさんある選択肢の中かから自分にとっての正解は何か?を考え、その正解を手にしていく。
この主体的な生き方が、この世界では求められている。
もちろん、選択をしたその瞬間は、それが自分にとっての正解であるか否かが不明瞭な時もある。
しかし、そのような場合も問題はない。
その選択を、自分の手で正解にしていくことも、また人生の真理だ。
何か一つの正解があり、それを見つけなければいけないという考えはもうやめよう。
僕が伝えたい二つ目のことは、教育のあり方を変えるべきであるということだ。
これは先ほどの話とは一転し、非常に中長期的な話になる。
しかし、必ず、教育は改革されなければいけない。
僕が受けてきたような「ただ一つの正解を見つけ出すことのみがよしとされる教育」は、実際の世界と圧倒的に乖離している。
この詳細については、ここまで僕が述べてきた通りだ。
あるべき教育の姿は、正解のない問いに対し、自分なりの正解を思考していく教育だ。
先ほど述べたような、幸せの定義や、結婚に対する考え方について、ステレオタイプ的な意見を丸暗記するのではなく、自分なりの考えを思考し体系立てていくトレーニングこそが教育のあるべき姿だ。
このような教育を行うことで、正解のない世界に放り出されたとしても、自分の力で人生を切り開いていくことができる。
昨今日本でも行われている探究の学習はこの文脈に非常に合致している。
このような考え方を、キャリア教育や進路教育にも組み込み、より主体的に生きる魂を育てていくことが重要だ。
正解のない世界に直面した時に、
僕は、君は何を思うだろうか。
その世界を恐れず、胸を張って一歩を踏み出せるようでありたい。
連載#7 正解のない世界に直面した時に
2024年2月24日