連載#5 人生の短さについて

人生は意外と短い。
そう述べる者もいれば、人生は長旅だと述べるものもいる。
果たして、どちらが真実なのだろうか。

この問いに対する答えは、「人に依る」というのが最適な表現だ。
無論、「人それぞれの意見でしかない」というような傍若無人な返答をしているわけではない。
一定の考察を経た上で、やはり人によって人生を長く感じるか短く感じるかは大きく変動する、という考えだ。

今回は、このような思考の時間を与えてくれた以下の本を紹介したい。
セネカ『生の短さについて』(岩波文庫)

セネカは、古代ローマ時代の哲学者で、ローマ皇帝の家庭教師を務めるなど、その時代の非常に聡明な賢人の一人だ。
そのセネカが記した著書の中でも、非常に優れた書と言われているのが、この『生の短さについて』である。
ここで、この書の中で、特に私自身の心を震わせた箇所を抜粋して紹介したい。

われわれにはわずかな時間しかないのではなく、多くの時間を浪費するのである。人間の生は、全体を立派に活用すれば、十分に長く、偉大なことを完遂できるよう潤沢に与えられている。

実際、生のこの期間は、自然のままに放置すれば足早に過ぎ去り、理性を用いれば長くすることのできるものであるが、君たちから逃げ去るのは必然である。なぜなら、君たちはそれをつかまえようとも、引きとめようともせず、「時」という、万物の中で最も足早に過ぎ去るものの歩みを遅らせようともせずに、あたかも余分にあるもの、再び手に入れることのできるものであるかのように、いたずらに過ぎ行くのを許しているからである。

生きることにとっての最大の障害は、明日という時に依存し、今日という時を無にする期待である。君は運命の手中にあるものをあれこれ計画し、自分の手中にあるものを喪失している。君はどこを見つめているのか。どこを目指そうというのであろう。来るべき未来のものは不確実さの中にある。ただちに生きよ。

上記の引用箇所で述べられているのが、まさに「人生は人によって長くもあり、短くもある」ということの非常にわかりやすい説明だ。
もう少しわかりやすく要点をまとめると、人生はその多くの時間を浪費してしまった者にとっては非常に短く、一方で時間は有限であるという事実を理解し、今という時間に向き合える者にとっては長くもできるということだ。

この指摘は、非常にわかりやすいことに加え、私も含めた多くの人にかなり厳しく突き刺さるのではないか。
というのも、今という時代は、高度に発展した文明とテクノロジーによって、物質的には非常に豊かになった一方で、その豊かさゆえに、あるいはその豊かさによってあまりに多くの時間を無意識的に浪費してしまっている人が非常に多い。

例えば、それが当たり前だからと思い込んで毎日定時で会社に勤め、家に帰ればSNSやネットコンテンツを無思考で開いて閲覧し、気がづけばアルゴリズムの奴隷となって計画もしていなかったあまりに多くの時間をネットコンテンツに奪われる。
その事実に気づいて、急いで支度を済ませたら、眠りにつき、朝日と共に起床して、また会社に向かう。

果たして、このような生活をしている人たちのどれほどが自分の人生が有限であるという事実に対して、当事者意識を持っているだろうか。
また、どれほどの人が、このような生活を繰り返した先の人生の終末期に自分は非常に長い人生を生きることができたと感じられるであろうか。
その答えは、明記するまでもなく明らかだ。


もう一つ、この書から学んだ非常に面白い点は、この書自体が今から約2,000年も前の古代ローマ時代に書かれているということだ。
このような長い時の流れを経てもなお、いまだに多くの人がハッとさせられるような内容であるということは、この「人生の時間の使い方」という課題が、人類が長く向き合いまた長らくその奴隷となってきた非常に根深い課題であるという証だ。

セネカのように、人生を自分でコントロールできている賢人がいることを理解した上で、私も自身の人生に向き合っていきたい。

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