生きるとはどういうことだろうか。
生きるということは、辛いこと。
悩むこと。
苦しむこと。
耐えること。
悔やむこと
苛まれること。
もがくこと。
そんなことなのではないかと思う。
こんな感情に溢れた日々を送りたい人などいないはずだ。
でも、そんな感情を抱くときにこそ、人は本当の意味での”生きる”を実感するのではないかと思う。
生きることは辛いことの連続だ。
どうしようもない無力感に苛まれ、
やるせない気持ちと共に、自分のことが恥ずかしくて仕方がなくなる。
無力な自分の情けなさに怒りさえおきるが、同時に同情さえする。
そんな瞬間が幾度となく襲ってくる。
有限である人生の終わりに向かって、ただ時間を刻んでいく。
そんな単純なはずの行為を継続することが、いかに難しいかを痛感する。
それでもその流れを断つことはできないという現実に向き合い、なんとかもがき続ける。
それが”生きる”ということなのだ。きっと。
人は自分が生まれる環境を選べない。
置かれた環境から人生を進めるしかない。
酷だけど、誰にも変えられない現実だ。
”人生イージーモード”という言葉がある。
生まれた環境ゆえに、辛さを、苦しさを味わう機会が少なく見える人もいるだろう。
ただ、実はそんな人にも必ず、その人なりの辛さを味わう瞬間は幾度となく起こっている。
そしてその度に、”生きる”ということをその人たちなりの形で感じるのだろう。
生まれながらに”ハードモード”なことだってあるだろう。
毎日が苦しみの連続で、
なんでこんなことになってしまったのだろう。
なんで自分だけこんな目に遭わなくてはいけないのだろう。
と、憎み、恨み、後悔をするが、その原因がどこにあるわけでもなく、抵抗することも叶わず、
やり場のない気持ちを抑えながら、”生きる”。
人は不思議で、
”生きる”ことを実感しないと生きていけないのだと思う。
何の変哲もなく、苦しみがない人生、一見幸せに見える人生を
人は、刺激が少ないと言ったりする。
そして自らその幸せそうな現実を捨て、苦しみに溢れた道を選ぶことがある。
合理的じゃない。
その先で苦しみ、もがき、自らを蔑み、そんな自分に同情する。
なぜこんなことに。と思っても仕方がない。
それは自分が”生きたい”と思ったために選んだ道なのだから。
それが”生きる”ということなのだから。
生きるとは苦しみの連続だ。
そんな憎いはずの人生を、なぜか人は儚く、時にとても愛おしく思ってしまうのはなぜだろう。
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