人生は振り子(?)

「人生は振り子のようだ」と感じるようになったのは二十歳を過ぎてからだった気がする。
当時は、どんな人生を歩んでいくべきなのかがわからずとにかく自分探しをしていた。
いや、当時だけではなく、今もなおふと気づくと自分探しをしては悩んでいることも少なくない。
きっと、そんな経験をしているのは僕だけではないはずだ。
きっと誰もが自分の人生を自分で生きていかなくてはいけないと気づいた時に、自分探しの回廊に足を踏み入れてしまうのだと思う。

そして、振り子のように、あるときはとある方向に揺れては、少し時間が経つとまるで人格が変わったように、全くの方向転換をしてしまうことも少なくない。

そう、人生はこの振り子を何回も繰り返していくことなのだろう。
なんて、20代の半ばを過ぎた今は俯瞰してしまう。

2025年が始まったばかりの当初、僕はかなり達観していたと我ながら思う。
岩波文庫を中心とした哲学や思想系の本ばかりをよみ、自分の人生や人間という生き物、この社会や世の中をかなり俯瞰してみていた。


ところがどっこい、アフリカに渡ってから、この振り子が大きく触れた。状況は一変した。
岩波文庫を手にする時間が昨年と比較すると大幅減少してしまった。
代わりに、手にするのはビジネス書や起業家の自叙伝が今年は多かった気がする。

正直、岩波文庫が大好きな人間なので、この変化は好ましくない。

ただ、内心、そこまで焦っていないのも事実。
なぜなら、前述したように人生はシーソーゲームであり、振り子であることを知っているから。
またすぐに岩波を手にして人生を達観するような日々が戻ってくることが容易に想像がつくから。


人生は、その時々の自分の状況に応じて中身が変化する。
落ち着いた平和な日々を送っていれば、それは岩波文庫なんかを読んで思想に耽ることができる。

ただ文化の違うアフリカで生活を始めるとそうも言っていられないと判断したのだろう。
生き抜くために必要な手っ取り早いハウツー本や、同じように変化の激しい人生を送ってきた起業家の本を読んで自分の状況を整理していこうと本能が判断したのだろうと思う。


上記の文を書いていたのは2025年7月15日。
約1ヶ月が経った今、結局また古典を手にする日々に戻っている。

振り子のスピードが以前よりも早くなった気がする。
その時々で、自分に必要なものに手が伸びるようになり、必要なことを行動に移すようになる。
それが人生なのかもしれない。
1ヶ月前までは、目の前の課題をどんどん解決するために即効性と具体性の高い情報を必要としていた。
一方で、今は、もう少し中長期の視点、抽象度の高い情報を手にすることが重要だと自分が無意識的に判断しているのだと思う。

振り子は振れている。
いや、もしかすると、振り子は振れていないかもしれない。
全くブレずに歩んでいる道の上で、右を見たり左を見ているだけで、人生はそんな揺らいでいるものではないのかもしれない。
揺れに、変化に不安を感じているのは、僕たちの錯覚なのかもしれない。

そんなことを思った。

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