商品は美しくない。
先日、都内に向かう電車の中で、ふと気分が悪くなった。それは、電車が大きく揺れ動くからでも、また車内が混雑しているからでもなかった。何か大きな違和感を感じ、気分を悪くしてしまった原因は、車内の壁や窓、天井から吊るされるそれ、また次の停車駅の案内が済むや否やモニターにすかさず現れるそれ、つまり”広告”だった。
広告なんてものは、もうこの時代に生きていれば目にしない日はない。アプリやwebページををひらけば画面の至る所に広告が当たり前のように出てくる。街を歩いても、新しくデビューしたアイドルや人気バンドの新シングルの宣伝が大きなモニターにデカデカと映し出され、交差点にはホストクラブや稼げる仕事?を謳う広告をデカデカと貼り付けた宣伝用のトラックが大きな音を鳴らしながら走っている。
私たちはそんな広告にあふれた世界に生きるのに慣れ、もはや何が広告で何が広告ではないのかすらも判別がつかないことも少なくないし、そんなことすら考えることもほとんどないだろう。無論私も同じだった。
にもかかわらず、なぜかあの日電車の中で車内いっぱいに張り出された広告に違和感を覚えたのは、きっと”全てのものが商品化されている”という現実にふと気付いたからかもしれない。
資本主義が土台となっている現代のこの世界では、すべてのものが”商品”として扱われている。さっき食べた豚汁に入っていた、白菜もネギも、豚肉も味噌もすべて商品として売られていた。調理をするときに使ったガスや電気も商品として家に供給されている。それだけではない。お店で働いている店員さんも私たちからすれば接客サービスという商品であるし、また同時に店員さんはその店の経営者からすれば労働力という商品として見えている。(たとえ意識的に見ていなくとも、そう見ることができるし、そうであることは疑いようがない。)
そして、私があの車内で見た広告も、”人の目線が集まりやすい場所”という電車の壁や窓モニターがすべて商品として広告主に売られた先にある産物だった。
そんなことは当たり前の話であり、誰でもそんなことはわかっているはずだが、改めて考えてみると何か奇妙な違和感を感じざるを得ない。私たちのふとした行動を想定し、それが商品として売られている。私は別に電車内の壁やモニターを偶然目にしているだけだが、それを見越して、その行動を第三者に商品として売られている。私の意図しない場所で、私の意図しない形で”私が商品化されている”。
この、すべてのものが商品化される世界、もう少しスコープを狭めて言えば、自分自身さえも自分の簡単に商品化されてしまう世界に、あの日、奇妙な違和感を感じたのだった。
違和感は、美しさが蔑ろにされていることに対する失望だった。
車内に隙間がないほどに、法則性も関連性もない広告が至る所に張り出されている様子。デザインの調子も主張も、統一性や関連性がなくバラバラ、まるで美しさのかけらもない。それぞれの広告はやはりプロによって綺麗にデザインされていて、広告単体ではぱっと見の美しさは存在している。ただそれが、調和せずに大量に張り出されている車内は、やはり美しくない。
ふと、広告の隙間から東京湾の水面がキラキラと光るのが見えて、余計に虚しくなる。
美しいものが美しくないものによって遮られている。
車窓からあんなにも美しい世界がみえるのに、なぜこんなに美しくない設計になってしまっているのか。
商品化された世界は、あまりに美しくない。
最後は、マルクスがかつて『資本論』の中で言及した以下の言葉で締めよう。
資本主義的生産を行う社会では、その富は、商品の巨大な蓄積のようなものとして現われる。その最小単位は一商品ということになる。